「本気」すら凌駕する脳機能、それが「本能」

10年以上前、私の息子が3歳か4歳ぐらいの時の話。

その日、私は町内会のボランティアで草野球の審判を頼まれており、妻と子供を連れて野球のグラウンドに来ていた。

野球のグラウンドとは言っても「小学生の草野球専用」といった感じで大した設備は無く、バックネット以外はフェンスの類いさえ無かった。

まだ、試合の開始予定時刻まで数十分以上の時間があり、私と妻は知人と談笑していたのだが…

息子の姿が見えない事に、ふと気づいた。
つい先ほどまで、妻の足元で蟻を追いかけていた筈なのに…

真っ青になった私が周囲を見回すと、息子は私達から15~20メートルほど離れた位置にある、高さ50~60cmぐらいのコンクリートブロックの上に立っていた。

そのブロックは一応、グラウンドと周囲の通路や駐車場とを仕切る為に「フェンス替わり」に置かれているのであろうと思われたが、問題は、その「向こう側」だった。

「高台」と言うのだろうか、グラウンド自体は周囲の通路や駐車場よりも数メートルほど高くなっており、息子が立っているコンクリートブロックの向こう側は斜面になっているのだ。

斜面とは言っても、向こう側の駐車場との高低差は精々3~4メートルほどであり、中学生以上であれば駆け下りて転んでも大した怪我はしない程度のものではあったが、さすがに3~4歳の幼い子供が転げ落ちたら、どうなるか分からない。

「危ない!!」

そう叫んで走り出した私のすぐ右横を、「何か」がもの凄い速さで追い抜いていった。

妻だった。

少々言いづらい事ではあるが…
結婚してからその時まで、妻が私よりも早く、あるいは上手に何かをこなす姿など、一度として見た事がなかった。

私がデジカメの使い方を教えなければ、今でも「写ルンです」で運動会の写真を撮っているような人物である。

典型的な「田舎のノロマな主婦」であった筈の妻が…
往年のフローレンス・ジョイナーを思い出させるほどのスピードで、私を追い抜いて行ったのだ。

そして、息子の直前まで駆け付けた妻は、野球の外野手がフライを追いかけてキャッチする時のように急減速し、息子を抱きかかえると「同時に」、息子が立っていたコンクリートブロックを足の裏で蹴るようにして止まったのだ。

その時は、脳科学の事など露ほども知らなかったが…
今にして思い返してみれば、その時の妻は、いわゆる「リミッター」が外れた状態だったのだと思われる。

実に情けない話ではあるが、「危ない!!」と叫んだ私の方が「冷静さ」を残していた事になる。

その出来事以来、私は息子の生活や教育に関しては全て妻に一任し、一切口を出さない事にした。
なにしろ、「主婦」としてはノロマで面食らう事も多いが、「母親」としては地上最強、唯一無二の存在なのだから。

「母は強し」という、日本人が耳慣れたこの言葉は、決して精神論や理想論などではなく「脳機能」である事を、私は「実証を伴った科学」として目の当たりにしたのだ。